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三陸を南下してきました~その3

3日目です。

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ウミネコにうにせん

朝食後に部屋に戻ってくると、前日のウミネコがまた窓辺にやってきました。冷房が効きすぎて寒かったので(でも最弱だったのでどうにもできず)窓を開けていたら、希望を持ったらしく何かを求めて鳴きます。これは、やはりえびせんを求めているのかな?、と思いましたが、あいにくえびせんは手元になく。

仕方がないので、ホテルに入ったときに置いてあった「うにせん」を割ってあげたところ、他のウミネコも次々寄ってきて、5~6羽が2枚のうにせんを取り合う事態に…。やっぱりここのウミネコも餌付けされていました。何しろ、ここの海でも湾内クルーズがあって、そこでウミネコにえびせんをあげているようなので。あぁ、夜のうちに売店でかっぱえびせん買っておくんだった。

語り部バス

その後早目にチェックアウトして、朝からホテル主催の「語り部バス」に乗りました。

泊まったホテル(南三陸 ホテル観洋)は、東日本大震災の際に避難所となっていて、地震直後からレストランも営業したりと、ある意味復興の拠点になったそうです。当時のことを語り継ぐために、「語り部バス」を出して、震災の遺構等を見ながら、当時の話をしてくれるのです。

実際、ホテルは海に張り出した感じで建っているので、当時も下方の階はかなりの被害が出たようです。ただ、上方階は無事だったので、従業員の皆さんは食べるものを我慢しながら、宿泊客や避難民に貯蔵食料を出したり、レストランを営業したりしていたようです。もちろん、水道は使えなかったので、紙皿にラップを張って出したりしていたそうですが。

語り部バスは、当時水没してしまった小学校跡、下方階のみの浸水で済み、今も稼働中の中学校(夏休み中なので生徒はいませんでした)等を回ります。小学校は避難所になっていたそうですが、それに甘んじず普段から裏山への避難訓練をしていたので、登校していた児童たちはみな無事だったそうです。

当時の津波で、海抜の低いところは軒並み浸水、家ごと流されてしまい、多くの住居が失われてしまったそうです。その後、そういう地域は住むことが禁止されたので、現在居住地は高台にかたまっているそうです。

そして、語り部バスはかの有名な「防災対策庁舎」の横を通り、当時大きな結婚式場であった「高野会館」へ。

防災対策庁舎(奥)。周辺は公園になったそうです
高野会館

高野会館は4階くらいまで浸水してしまったそうです。こちらは「観洋」さんの持ち物なので、震災遺構として残しているそうです。語り部バスには長時間コースがあり、そちらだと中まで入れてくれるそうです。

そんな感じで、当時の話を聞きながら、震災遺構を回ってホテルに戻りました。

さんさん商店街と防災対策庁舎跡

ホテルを出ると、最後の観光として、「南三陸 さんさん商店街」に向かいました。

商店街では、とりあえず名物の笹かまぼこ(常温保存化だったので)買い、時間があったので対岸の防災対策庁舎跡を見に行きました。

鉄骨がぐしゃぐしゃに曲ってしまっているのがよくわかって、津波の恐ろしさを感じました。

津波は建物全体を飲み込んで、アンテナの先が辛うじて出ており、そこに掴まっていた人と、屋上の手摺で耐えた一部の人のみ助かったとのことです。

ここは、全国ニュースでも何度も取り上げられた、女性の方(遠藤さん)が避難を無線で呼びかけ続けたという建物です。

実際には、最後は上司の方(三浦さん・男性)と代わったそうで、遠藤さんの遺体は見つかったものの、三浦さんの遺体は未だに見つかっていないそうです。

マスコミにとっては、若い女性の悲劇という方がインパクトがあるので、三浦さんの存在は報じられることなく、ほとんど知られていません。私も今回語り部バスで初めて知りました。

昼食~帰宅

さんさん商店街を出ると、最後の昼食会場へ。笹かまぼこ工場に隣接した食事処で、牡蠣とマグロ食べ放題の昼食です。

大振りな牡蠣(蒸し牡蠣?/殻付き)がバケツに山盛りになっており、なくなると止めない限り際限なくお代わりが入れられてしまうという…。マグロのお刺身はセンターテーブルに取りに行く形だったので、好きなだけ取れば良いのですが、牡蠣はそこまでたくさん食べられないですよね…。何しろ、1個1個が大きいので。

満足するまで食べて、これでこの旅行は全行程終了です。

仙台から新幹線に乗り、金沢のとき同様に上野で降りて東海道線に乗り換え、帰宅しました。

この旅行で一番印象に残ったのは、やっぱりウミネコと語り部バスかな。

ウミネコは人懐こくて可愛かったし、最近関東でも地震が増えているので、防災については改めて考えさせられました。

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